
ヴヴプリンがこの家に貰われて来たときのこと、まるで昨日のことみたいに、はっきりと憶えてる。
あれは五月も終わり頃の、空が真っ青に澄み切った日曜日の午後のことだった。
遠くに霞むアルプスを後ろに燃えるような真っ赤なケシの畑と、刈り取り前の波打つ麦畑の間の道を、勢い良く走って来るメメ夫人の車が見えたとき、パオロ小父さんは、愛用のパイプを加えたまま、ちょっと迷惑そうに呟いた。
「猫は二匹は飼わないぞ。サング、おまえだけで充分だよ、な」
小父さんは足許にうずくまっているオレを覗き込んで、まるで人間にするみたいに悪戯っぽくウインクをしたものだ。友人とチーズ店を経営しているパオロおじさん、ちょっと太りすぎているけど働き者で誠実。オレ、小父さんが大好き。
オレがこの家に居候するずっと前、おじさん夫妻は2匹の猫を飼っていたらしいけど、奴らは喧嘩ばっかりして、ろくな奴らではなかったらしい。
窓辺の鉢植は滅茶苦茶にするわ、赤ん坊の玩具を壊してしまうわ、編みかけの毛糸の耳隠しを奪い合いっこしてぼろぼろにしてしまう、しかもネズミ一匹猟ってくれない怠け者どもで、それも夫妻には不満の種だった。
とにかく小父さんは2匹一緒に飼うのは、もうこりごりだと言っているんだ。オレだって同じ意見さ。一人のほうがのうのうとしていられるもの。出来の悪い相棒と暮らすなんて真っ平ご免だ。
「あたしも同感だわ。2匹はうんざりだわ」
奥さんのルチアさんもそう言いながら、読んでいた雑誌を閉じて立ち上がった。彼女は中学校の数学の先生だから、喋り方もきりっとしている。
ルチアさんのことも、オレ、嫌いではないんだけれどね。女は一般的に猫好きとは聞いてはいるけど、彼女は好みもはっきりしているようで、どうもオレとはしっくり行かないんだ。
オレはねずみ捕りがすっごく上手で・・・それはいいこととしても、口の回りを血だらけにして、のっそり台所に入って行ったもんだから、彼女、キャーっと天地がひっくり返るくらいの悲鳴上げて、鍋を床にひっくり返してしまったんだ。
オレの『サング』って名前のことだけど、実はサングエは『血』の意味なり。
口を血だらけにしてうろつき回るオレを見て、いつのまにかそう呼ばれるようになったってわけ。以前は『ピーター』なんて可愛い名前いただいてたんだけど、もう誰も覚えていないと思うよ。
銀色のオペルの小型車が鉄格子の門をくぐり抜けて止まった。
とっても小柄でころころしたメメ夫人が元気よく降りて来て、『猫ちゃんは後ろよ。手伝って下さいな』と、にこにこと自信ありげに言う。
彼女は電話でも『一見の価値があるのよ』とさかんに言ってたもの。
丘の中腹に住んでいる遠縁のメメ夫人に無理矢理せがまれて、仕方なくご対面をする羽目になったのだけど・・・籠から出された子猫を一目見るや、ついさっきまで『二匹は絶対に飼わない』などと口々に言ってたことなど、けろっと忘れたみたいに、おじさんもおばさんも,小学生のチビのジャコモも、家中の者がみな、奴に夢中になっちまったんだ。
白とほんのりと淡いグレーのぶち。
メメ夫人曰くの『ビロードのような』グレーの中に、紫色の大きな瞳が輝いていた。生まれてまだ3ヶ月半しか経っていない子猫は、広いサロンの中を、あつかましくも我がもの顔で走り回る。
オレはいきなり飛びかかって、引きずり回したり転がしたり、蹴っ飛ばしたり、ありったけの方法でチビ歓迎のテストを行う。へい、まず、オレ様のおめがねにかなわなければ、一歩だってお屋敷には入れないってこと肝に銘じるんだ。
ところがそれは浅はかな早合点であることを思い知らされたのであった。
「やめなさいっ!サングったら、気でも狂ったの?」
ルチアさんの、ほっそりとした、だが力強い両手で捕らえられて、オレはぽーんと床の上に放り出されてしまったのである。
「いじめないで!こんなに綺麗なネコを!ろくでなし!」だとさ。
オレはすごすごと寝宿の籠の中にもぐり込んだ。
親子3人、みな魔法にかかったみたいに、ぼけーっと子猫に見とれている。ジャコモが抱き上げようとすると、するっとすり抜けて優雅に暖炉の上に飛び上がり、今度はとってもお行儀良くお座りして、『ほら、ボクはここだよ』と、じーっとみんなを見るんだ。
たった4ヶ月半しかたっていない子猫なのに、妙に色っぽい眼付きでさ。綺麗に並べた前足の片っぽうのほうを、ちょっとだけずらして澄ましているのがたまらないと、ルチアさんが言う。同感だよ。オレなんか一生かかったって、絶対あんなに気取ったお座りは出来っこないものね。
「童話の中の絵みたいだね」と小さなジャコモは、そばかすだらけの顔をくしゃくしゃにさせて、手をたたく。
メメ夫人は、それ,見てごらんなさいと言わんばかり。にんまり笑って、家族の気が変わらぬうちにと思ったのか、「明日から刈り入れが始るから,大変なのよ」などと言いながら車に乗り込むと、さっさと帰ってしまった。
「僕の部屋に寝かせてもいい?」
やっと捕まえた子猫をめちゃくちゃに抱き締めながらジャコモがねだる。そんなこと、今までオレのために一度だって言ったことないのにさ。
「だめだよ。今日からサングとは兄弟になったのだから、もっと大きな籠の中で二匹一緒に寝るんだ」
と、パオロ小父さんがたしなめる。
「えー?サングと一緒?そんなのないよーォ」と、チビが叫んだ。このアホ!
さて、名前はヴヴがいいとかプリンにしょうとか、年甲斐もなくルチさんとチビのジャコモが譲り合わないので、
『よし、ヴヴプリンと命名しよう』
いつも中道派を行くパオロ小父さんの穏やかなひと声で決まったのである。
オレはすっかり不機嫌になって隅っこの籠の中でうずくまっていた。
ちょっと悲しかった。オレがこの家に来たときには、こんなに大騒ぎにならなかったもの。
近所の葡萄栽培の農家に四匹生まれて、貰い手がなくて困っていたところを、人のいいパオロおじさんがオレを引き取ってくれたんだ。
仕方がないさ。オレはありふれたキジ猫にすぎないんだ。でっかい図体に小さな黒い眼と太い短い足では、たくましさ以外にまったく取り柄がないんだもの。ジャガイモ畑でモグラを見つけて、ごそごそやっていたオレを見て、ポスティーノ(郵便配達夫)のニーノが聞き捨てならぬことを言ったもんな。
『お前は全く『コンタディナッチョオ(百姓猫)』と呼ぶにふさわしい』
すっと大きな手が伸びたと思ったら、オレはパオロ小父さんの腕の中に抱かれていた。
「サング、元気がないじゃあないか。今日からお前の弟が出来たんだよ。嬉しくないのかい?」
ヴヴプリンはどんどん成長して、ますます美しくなっていく。
すんなりとした足、いつもぴんとたっている長い尻尾は、歩くごとに実に優雅に曲線を描き、オレでさえほれぼれする。
小さな顔は『気品に満ちて』、どんなに腹が空こうが、オレみたいにがつがつしないで、口をつける前に、ちょっと感謝の気持ちを表すように、じっとおばさんの顔を見るんだもの。そして綺麗に尻尾を捲いて、お行儀良く食べはじめる。ルチアさんがめっためたに愛しちゃうのも分かるけどね。こう言う奴を血筋がいい、と言うのかも知れない。
もう差を付けられちゃって、百姓猫のオレなんかてんで足許にも及ばないってとこだ。
「王子様が魔法にかけられて猫に変身してしまったみたい。きっとそうよ。悪魔が焼きもち焼いて猫の姿に変えてしまったのよ」
とは、我が家のジャスミンの垣根の向こうに住んでいるマチルダの、年甲斐もない讃美の言葉。聞いている方が恥かしくなっちまうよ。
月日は夢のように経っていく・・・
赤とんぼを追っかけて楽しんでいた季節もあっと言う間に終ってしまい、庭の3本のポプラの大木の葉っぱが黄色く変わったと思ったら風に吹かれて落ちてきて、その上を歩くとざくざくと音を立てるほどになった。
オレとヴヴプリンは、落ち葉の上を転がったり、裸の杏の樹や桜の木に駆け上ったり、たまに裏の雑木林から舞い込んできて樅の木に駆け上るリスを追っかけたりして、一日中遊んで過ごした。

やがて木枯らしが吹く冷たい冬が訪れた。灰色の雲の間から、鈍い太陽がたまにちらっと顔を出して、また隠れてしまうような陰気な季節がやってきた。オレたちはサロンの大きな出窓を陣取り、ぴったり体をくっつけて、いっしょに外を眺めたり昼寝をしたりした。
*
パオロ小父さんのお母さんの誕生日のお祝いを兼ねて、家族みんなで二泊、実家を尋ねる事になったので、オレとヴヴプリンが留守番をすることになった。
飯は隣の家のマチルダが面倒みてくれることになったのだが・・・
「せめてヴヴだけでも、お留守の間、うちに引き取ってもいいんだけれど・・・」
マチルダの言葉に、パオロ小父さんは一寸怖い顔をして言った。
「サングとヴヴはとっても仲がいいから、上手に留守番は出来ますよ」
家族が出かけてしまって一日が過ぎた。急に寒さがひどくなって、庭の小さな池に薄氷が張った。
翌日、眼が覚めたら、雪が降り始めていた。大きなぼたん雪はとっぷりと日が暮れてもまだ降り続いていた。庭の石畳や芝生の上や凍った池の上にもどんどん積もっていって、何もかも見分けがつかないほどまっ白になった。
マチルダが準備してくれた夕ご飯を食べたあと、オレとヴヴはサロンや廊下を駈けっこしたり、箪笥に駆け上ったり、かくれんぼしたり、日頃は家の中で禁じられていることを思い切りやって楽しんだ。
オレもすっかり開放感を感じている。煩しい人間共がいないと、こうもリラックス出来るのか。
ヴヴだってきっとそう感じているに違いない。だって、このオレさえヒヤヒヤするほど、上へ下へ狂ったみたいに駆け回るんだもの。
やがてそれにも飽きると、体を寄せ合って眠りについた・・・
夜中に眼が覚めると横にヴヴがいない。
もう雪は止んだらしい。それどころか、月の光が嘘のように家の中まで煌々とさしこんでいた。
おや?
ヴヴは窓辺に座って、じっと空を仰いでいる。月の光を全身に浴びて、すっと首を伸ばしたヴヴは、まるで陶器に変身してしまったかのようだ。こんなヴヴってオレ初めて見たよ。奇妙で、何かただ事ではないぞって感じだ。
眠い眼を擦りながら、窓辺に飛び乗ってヴヴと並んで座ると、まん丸な大きなお月さまが見えた。月はまともには見ておれないくらい輝いていた。雲はどんどん去っていく。たくさんの星が見えてきて、白い大地を銀色に染めた。
ヴヴの夢見るような瞳は、普段よりももっと大きく紫色に輝いて透きとおっている。 真剣そのものの表情が月に注がれている。まるでお月さんと話をしているみたいだ。
「ヴヴ、お月さんと何の話をしているんだい?」
オレにはお月さんと話しすることなど出来っこないけど、ヴヴには出来るのかもしれない。ヴヴって、とっても夢想家なんだもの。
そして、オレはまた一人で籠にうずくまって寝込んでしまったのだった。
朝になった。
窓辺に飛び上がって外を眺めると、見わたす限りの銀世界。
近所の子供達が雪だるまを作ったり雪合戦をしたり、日頃しょぼっくれている老犬まで元気いっぱい走り回っている。お日様が眩しい。すべてが生まれ変わったような輝かしい朝だ。
ヴヴは何処だろう。
家中探して回ったけど見かけない。台所の小さな切り窓をくぐって、外へ出て行ったのかも知れないと思った。切り窓は食料品やワインや燃料などが置いてある納屋に通じ、そこにも小さな穴があって、表へ出られるようになっている。
オレはそこから外へ出て家の回りを探して見たけどヴヴの姿は見当たらない。
ちょっと心配になって来た。
マチルダがやってきた。
彼女は『ヴヴ!ヴヴプリーン!あたしよ、ごはんよ!』と猫なで声で呼ぶ。
オレだけがのっそり姿を現したので、マチルダは一瞬気が抜けたような顔をした。
ヴヴはどこに隠れているのだろう。それとも,犬に噛み付かれて倒れているのではないだろうか。あいつはちょっとぽけっとしたところがあるから眼が離せないよ。
マチルダのおろおろ声、
「ヴヴ、お願いだから出て来て。かくれんぼごっこは止めて!」
雪はどんどん溶けていく。四方八方捜査した甲斐もなく、ヴヴは姿を見せなかった。そして、それっきり・・・
夕方、家族が旅行から戻って来た。
ルチアさんとチビのジャコモの、ドアを駆け込んでの第一声は何だったと思う?
「ヴヴ!ヴヴプリーン、何処にいるのー?帰って来たのよー!」
さあ、これから一騒動おこるぞ!
涙でくしゃくしゃになったマチルダから、ヴヴが今朝から行方不明と聞かされて、一家は騒然となった。
予想はしていたが、その取り乱し方ったらなかった。
ルチア小母さんは、へなへなっとソファーに座り込んで頭をかかえる。ジャコモはワーワーヒステリックに泣き出してしまう始末。
マチルダの奴、涙をぽろぽろ流して、
「ああ、やっぱりヴヴを預かっとけばよかったわ」
などと、鼻をかみながらじろっとパオロ小父さんを見るのだ。
その上この女は、まるでオレの責任とばかりに、こっちをにらみつけるんだ・・・まさか、オレがヴヴを喰い殺したなんて思っているんではなかろうね。エコひいきが強いマチルダだったら、考えそうなことだがね。
「そうか・・・雪の夜、姿を消したヴヴプリン・・・」
パオロ小父さんは、思いに耽ったようにパイプをゆくらせながら、つぶやいた。
ヴヴ、何処へ行ってしまったのだい?
あんまりぐっすり寝てたもんだから、ヴヴが出て行ったこと、気が付かなかったんだよ。お月様に導かれて、遠いところに行ってしまったのかい。ああ、一緒について行ってやってたら・・・きっと無事に帰って来れたのに。
パオロ小父さんが、励ますように言った。
「さあ、みんな元気を出すんだ。ヴヴが死んでしまったってわけではないのだから。明日、みんなで探そう」
あれほどいい天気だったのに、また黒い雲が出て来て,冷たい雨が降り出した。
次の日も次の日も探しに出かけたオレは、ただ一人でとぼとぼと濡れて帰って来た。ずっと向こうの国道の側まで、さては丘の中腹まで行って見たんだけど。
小父さんも小母さんも、さてはジャコモまで、みんなで手分けして探したけど、ヴヴは見つからなかった。
誰も口を聞かず、家の中は陰気な空気に包まれてしまった。ヴヴはこの家の太陽、いやお月様だったんだ。もう、ヴヴは帰って来ないんじゃあないか、もしかしたら死んでしまったのかもしれないと思うと、とっても悲しかった。
*
春が訪れて樹や草が萌黄色に染まり、やがて夏も真近かになった。
見渡す限りの麦の穂はどんどん伸びていって、刈り入れ時に近づいていた。洗濯物を干したり取り込んだりするとき、真っ赤なケシの畑に眼を移しながら、ルチアさんは溜め息混じりにつぶやくのである。その眼は潤んでいる。
「ちょうど、去年の今頃だったわねえ、ヴヴプリンが来たのは。可愛そうに。ヴヴはまだ生きているのかしら」
そして、珍しくオレを膝の上に乗っけて、物思いにくれたように優しく撫でてくれるのだった・・・
『2』
車を降りて、枯れ葉をざくざくと踏み散らしながら入ってきたルチアさんは、凄く興奮していた。
夕食のとき、おじさんとジャコモがテーブルに着いた時、高ぶる気持を押さえるのを苦労するかのように、厳粛な口調で話し始めた。
「驚かないでちょうだい。あたし、今日、ヴヴプリンを見たの。絶対ヴヴよ。間違いないわ」
いつものようにはっきりと言い切ると、急に感動が蘇ったのか、ルチアさんはナプキンを眼にあてた。
「学校の帰り、あたしがワイン工場に寄って、箱を車に運んでもらうのを待っていたときなの。何気なく国道の方に眼をやったのよ。そしたら、道の向こう側の草影に猫がいるの。こっちの方を見ているふうだったけど、それがヴヴにそっくりだったのよ。
絶対にヴヴだったわ。あたしがヴヴって呼ぼうとしたとき、トラックが勢い良く走って来て、反対側からも車が続けて通り過ぎて、その後再び見たらもう猫の姿はなかったの。
それであたし、国道を越えて探しに行ったの。何しろあの国道ったら、環状線から別れた後、一直線に伸びているのでめちゃくちゃにスピード出すでしょう。渡るのがとっても怖かった。あたしはヴヴー、ヴヴプリーン!どこにいるのーって呼びながらあっちこっち歩いたんだけど、もう姿をみせなかったわ」
「君の勘違いってこともあるぞ。国道の向こう側にいるんだったら、とっくに帰って来た筈じゃあなかったのかい?我が家から7、800メートルと離れてないんだぞ」とおじさんが言った。
「国道は車がスピード出すから、ヴヴは怖くて渡れないのかも知れないね」
幼いジャコモがアジなことを言ったとき、パオロ小父さんは、おやっと、さも感心したかのように我が子を見た。
「うーむ、凄いぞ、ジャコモ。そうかもしれないな。いや、きっとそうかもしれない」
おじさんはしきりと考え込んでいる様子だった。
昨日もルチア小母さんはヴヴを探しに出かけた。そして今日も・・・
帰って来て、コートを脱ぐのももどかしく、ソファーに座り込むなり言ったのだ。
「二人とも聞いて頂戴。驚かないで。やっとヴヴを見つけたのよ」
小父さんはパイプに火を付けようとしていた手を休めて、おばさんの顔をまじまじと眺め、次の言葉を待つ。
チビのジャコモときたら、宿題のノートを放り投げて、小母さんの足許に身をゆだねて、聴き耳をたてる。
「ジャコモ、いい子だから、パパと一緒に最後まで聞いてね」
ルチアおばさんは嘆願するように言った。
「国道を渡ってポプラ並木を過ぎて、どんどん東のほうに歩いて行ったら、小さな住宅地に出たの。ほら、煉瓦建ての英国の教会があるところよ」
「随分遠くまで行ったんだな。あの辺りは、英国人がたくさん住んでいるところだろう?」
「そうらしいの。こぎれいな一軒家がぽつんぽつんとあって、お庭もついててね。今の季節には殺風景だけど、あたし憶えている。初夏に通リ過ぎたことがあるけれど、花が咲き乱れていて、平和で洗練された、とっても素敵な所だった・・・
あたしね、そこまで来た時、きっとこの辺りにヴヴはいるんだという気がしたの。なぜだかわからないけれど、こんなに美しいところにヴヴが生きていても、ちっとも不思議ではないと思ったからかしら。
注意しながらゆっくりと歩いていたんだけど、教会の角を曲がったとき、ふっと向かい側の家の方を見たの。芝生のある蒼い屋根の可愛らしい家、多分薔薇づるだと思うけど、びっしり覆われた白いふちの大きな窓ガラスの向こうに一匹の猫が・・・あたし、幻を見ているのかと思った。ヴヴだったのよ!」
感動が蘇ってルチアさんは目頭を押さえた。
「ヴヴが前足を綺麗に揃えて、心持ち重心を片方に寄せて、何か尋ねるような、気取ったポーズで座っていた姿、覚えてる?あれ、そのままだったのよ。そしてあの紫色の大きな瞳で外をじーっと見ているの。遥か遠くを見ている夢のようなあの瞳で。あたし、窓の下まで行って、手を差し伸べて夢中で呼んだの。
『ヴヴ? ヴヴプリンね。あたしよ、ルチアよ、あんたのママよ』
そのときあたしの気配を感じたらしく、ヴヴの後ろに若い女の人が姿を現したの」
ルチア小母さんは続ける。
「少し窓を開けてくれたので、『一年前に行方不明になったうちの猫とあまりにもよく似ているので、声をかけてしまったのです。この猫は小さいときからお宅で飼われていたのでしょうか』って、一気にまくしたてたものだから、彼女、とっても驚いたような、警戒するような表情をしてね。でもやがて『外は寒いでしょうから』と親切にあたしを家の中に入れてくれたの。あまり若くはないけれど、大きな灰色の瞳の美しい人・・・そして大きな窓のあるサロンに通されたの。
『ヴヴ、やっと巡り会えたのね』って、窓辺に走り寄ろうとしたら、ヴヴったら降りて来て足許にすり寄って来たの。あたし、もう涙が止まらなくて・・・抱き上げたとき、そのまま連れて逃げ出したいくらいだったわ」
チビのジャコモが叫んだ。
「どうしてヴヴを連れて帰らなかったの?ママ、どうしてだよーっ?」
パオロ小父さんがジャコモを膝の上に抱き上げながら諭すように言った。
「ジャコモ、そんなに駄々をこねないで、ママの話をきこうじゃないか。ヴヴは元気に生きているんだよ。嬉しくないのかい?」
「娘さんは年取ったお母さんと二人だけで住んでいて、家の中もいかにも英国調の、しっとりとした落ち着いた感じだったわ。
『ブリアン(ヴヴはそう呼ばれているの)は、私たちの宝物なのです』
お母さんはあたしにお茶をふるまってくれながら、控えめにそう言うの。
あたしがヴヴの生い立ちや、ヴヴをずっと探し続けていたことを話していると、娘さんは涙をいっぱいためて、じっと聞いていたけど、やがて顔を伏せてしまった。あたしも娘さんが肩をふるわせているのを見ていると、ジーンとなってしまったけど・・・
気を取り直した彼女は、
『一年前、大雪が降った翌日の朝早く、ドアの近くで一匹の猫が凍えて死んだように横たわっていたのです。足に大怪我をしていたので、すぐに獣医さんのところに運んで、長い看護のあとやっと元気になったのです』
大きなガラスの破片が後ろ足に深くささっていて、あまり傷が深くて、まともに歩けるまでとっても時間がかかったけど、今では元のように元気になったのだって・・・
『でも、きっと飼い主の方が探しているにちがいないと・・・こんなに綺麗な猫なんですもの・・・あたしと母は、ご近所を尋ねて聞きあたったりしていたのですけど・・・でもそのうち猫も私たちにすっかり懐いてしまって、一年経ってしまったのです』」
黙って聞いていたパオロ小父さんが口を開いた。
「ルチア、もうヴヴのことは忘れるんだよ。幸せに生きていることがわかったのだからそっとしておこうよ」
ルチア小母さんは、ほっと溜め息をつくと、小父さんとジャコモの顔を代わる代わる眺めるのだった。
「まだ、話は終ってないのよ。最後まで聞いてちょうだいな」
「・・・そして娘さんは言うの。
『ブリアンは月の出る夜はちょっと様子が違うのです。じっと、取り憑かれたように月を眺めていたり、無性に外へ出たがったり・・・そう言えば、傷ついて見つかった日の前夜は、雪が止んだあと嘘のように月が出ていたのを思い出したのです。
あの夜は、月の光が信じられないほどこの部屋に射し込んで来て、私はランプを消して、窓辺に立って外を見ていたのでした。きっと私はブリアンを待っていたのですわ。私たちはブリアンと出会う運命にあったのだと、今でも母と話すのです』
そこまで言われて、わたしも黙っておれなかったわ。
『あの大雪の降った夜、ヴヴは美しい自然に魅せられて家を出たのです。そして道に迷い、怪我をして助けを求めていつの間にかここまで来てしまった。ほら、見てちょうだい。また、あたしにすり寄って来たではないの。昔の飼い主を慕っているんだわ。ヴヴは私のもとに帰りたがっているのです』
『この猫はすなおで、優しい人には誰にでも、信頼を示すのです。
・・・私だって、ブリアンを自分の子供のように育てて来たのですわ。私達は来年の二月にはここを引き払って、故郷のリッチモンドに戻ることになっているので、ブリアンも連れて帰ろうと決めていたのです。何て皮肉なこと、もう出発も後わずかという時になって、飼い主の方が現れるなんて・・・』
けなげにも、毅然として娘さんが言ったとき・・・
それまでじっと耳を傾けていたお母さんが、物思いに耽ったように、ぽつんとこう言ったの。
『待つのよ。・・・あの夜のように。そのとき、きっと全てが解決するわ。ブリアンが自分で決めるでしょうから』」
そしてルチア伯母さんは帰って来たのだった。
クリスマスも過ぎたのに、珍しくいい天気が続いていた。
だが、年もとっくに明けて、2月もすぐ手の届く頃、気温は急にさがって、空一面鉛色の低い雲に覆われ、ついに池に薄氷が張り、裏庭のボンプが凍ってしまって水が出なくなるほどになった。
朝、固く凍った地面に雪が降り始めていた。大きなぼたん雪は一日中降り続いた。鉄の門の明かりが灯る頃には外は一面の銀世界と化した。
ラジオがこの一帯の国道が閉鎖されたことを伝えていた。
真夜中になって、ついに雪は止み、あっと言う間に重い雲は払われて、月が姿を現し、夜空いっぱいに星が瞬いた。
「ヴヴはきっと帰ってくるわ。そうよ、間違いないわ。
ルチア小母さんが、身支度をしながら、自分に言い聞かせるように繰り返した。
*
遥か遠くに一匹の猫が姿を現した。紛れもなくヴヴだった。
そしてその後ろから、ずっと離れて女の人の姿も・・・月の光に加護されたように、雪よりも白いヴヴは、ゆっくりとこっちに向かって歩いて来るのだ。時々立ち止まってあたりを見回し、空に向かって首を掲げ、そしてまた数歩。未知の世界に足を踏み込むように用心深く・・・
やがてオレの姿に気が付いたのか、ヴヴは立ち止まった。ちょうど、国道のあるあたりだ。
ヴヴはじっとこっちを見ている。思い出そうとしているのだろうか。
冗談はよしてくれよ。サングを忘れるなんてことがあるのかい?
ヴヴの眼は明け方の露のように輝いている。
やがて慎重に一歩前へ進み出た。そしてオレも。又,一歩・・・オレ達の間隔は数十メートル、そして数メートルの近くまでに狭まった。
鼻の先がほとんどくっつけ合うほどに近かまったとき、野草の花の蕾みのようなヴヴの匂いをかいだ。
ヴヴ、お前は何て綺麗なんだ。
「ヴヴ、久しぶりだな。お前、本当に月の王子様みたいになったな」
オレたちは体をすりよせ、鼻をくっつけんばかりに、夢中で匂いを嗅ぎあった。
「さあ帰ろう。ルチアおばさんもパオロおじさんも、ジャコモも、みんながヴヴが帰って来るのを、首を長くして待っているんだよ」
遠く離れたところで、ルチア小母さんがマントにくるまって、かたずをのんで立っている。時々,まっ白な息を吐きながら・・・その数歩下がったところにパオロ小父さんも。

「なにをぼけっとしているんだよ。嬉しくないのかい?明日から楽しい事がいっぱいだ」
オレとヴヴは体を擦り合わせるようにして、おばさんのほうに向かって歩き出した。ヴヴの柔らかく暖かい体のぬくもりがこっちに伝わってくる。ヴヴにしたって同じ事にちがいない。オレたち兄弟なんだから。これからはいつも一緒なんだ。
ついに小母さんと僅か10数メートルの所まで来た。
ルチア小母さんはもう我慢できなくなって、手を広げてヴヴに走りよろうとした。おじさんがそれを制した。
「ルチア、待つんだよ。ヴヴがたどり着くまで」
そのとき・・・
ヴヴがふと、座り込んでしまったのだ。どうしたんだよヴヴ?さア,行こう。
ヴヴはもと来たほうを振返った。
星屑の中に溶けてしまいそうな遥か彼方で、女の人が手を振っていた。
『ブリアン、さようなら』
ヴヴは身動きもせず、じっと 彼方を見ている。
『幸せになってね,ブリアン』
ヴヴは立上がると、再びオレに体をこすりつけてきた。綺麗に曲線を描いた尾が、やわらかくオレの鼻先に触れた。
それは優しい別れの挨拶であった。
ヴヴは、もと来た道を歩きだした。自分の足跡に忠実に従うように・・・
暫く歩いた後、立ち止まって振返る。そして、じっとオレ達を見つめていたが、再び前へと・・・そしてもう、二度と後ろを返り見ようとはしなかった。
「ヴヴ、行ってしまうの?」
呆然と立ちすくむルチア小母さんの震える肩を、小父さんはしっかりと抱き締め、無言のまま、ヴヴを見送っていた。
やがて小さな白い姿は女の人に抱き上げられた。
ヴヴ、達者でな。あんまり夢ばかり見て、人騒がせするんじゃあないぞ。
(『月夜のヴヴプリン』おわり)