2009.07.17(Fri)
けんじのイタリア猫・ショートショート/あと58話
悪夢のエッセイです。
インクボ(悪夢)
人里離れたちょっとぶっそうな、石垣みたいなところを沿ってボクは歩いていた。
もう、暗くなりかけていた。
急ぎ足のボクは、道ばたに座り込んでいる黒猫を蹴飛ばしてしまったのだ。突っかいたときはじめて、それは猫であることがわかった。いや、蹴飛ばされて猫にひょう変したのかもしれない。夢って、現実には起らないことだらけだもの。
蹴飛ばされた黒猫は牙をむいて、ハーッとやった。
おっかない顔だった。
ボクは逃げ出した。
逃げながら後ろを見ると、黒猫はどんどん大きくなってまるで豹のようになり、ボクを追っかけてくるのだ。
アユートー(助けてーぇ!)と、たしかイタリア語でありったけの力で叫んでいる自分。
逃げながら声を張り上げて、何回も何回も勢威いっぱい叫んでいる自分。
獣はだんだん大きくなって、視界がなくなるくらいに広がっていく。ついに、真っ黒なマントでボクを包み込もうとした。ああ、もうだめだ!と思ったとき、目が覚めた。
夢でよかった・・・よろい戸から洩れて来る星明かりを感じながら、自分がびっしゃりと汗をかいているのに気が付いた。
ボケッとしている自分の耳に、短いブザーの音を聞いたようなきがしたが、気のせいだろうと思った。
ふらつく頭でベッドを離れながら、時計を見ると3時半をさしていた。ベッドに入ったのは2時を過ぎていた。フリーランスのボクは、完璧な夜型なのだ。
コーヒーでも沸かそうかとキッチンに入ったとき、ベルは再び鳴った。覚悟を決めたような執拗なベルの音に、ボクはもうちょっとのところで、インクボはまだ続いているような気にさえなった。
ドアの小さな覗き窓から目を凝らすと、若い女の姿が目に入った。彼女は我が家のドアから離れると、上に向かう階段を数階上って、また降りて来て、今度は下へ行く階段を降りはじめて又、上がってきた。明らかにどうしていいのか迷っているふうだった。
危険はなさそうだから、ボクはドアを開けた。予想していた通りに隣に住むルクレツィアという娘だった。
「気分はどう?あたし心配で心配で」
彼女は開口一番こう言った。
「あなたが助けてーって叫んで泣き出している声で、あたし目が覚めたの。叫び声が止まないので、携帯を掛けたけど切れているでしょう。だから、ベルを何回も鳴らしたんだけど。あたしポンピエーレ(消防夫)に電話もしたのよ」
こういうときはイタリアでポンピエーリを呼ぶらしいのだ。
奇声を発していた住人の反応がなくなると、クレーンで4階まで上って来てバルコニーに移り、窓をわって侵入する。
「病人はどこだ!気狂いはどこだ!」
「あのね、インクボで獣に追っかけられていたんだ。悪かった、迷惑かけて」
「ほんとうに何ごともなかったのね。じゃあ、消防夫には来る必要はないって連絡するわ」
彼女はそう言って、手にしていた携帯でキャンセルをしてくれた。
そして、全ては平常に戻ったのである。
我が家の寝室と、お隣の寝室が付き合わせているのが、日頃から気にはなっていた。
ときどきインクボで大声をだす、自分のこの病い?のことは重々心得ていたからだ。
ルクレツイア嬢が住んでいる60平米のアパートを彼女に半年前に売り渡したとき、一ばん気になったのは彼女の新しい寝室のことだった。
「この部屋、寝室にちょうどいいおおきさだわァ」
ルクレツィア嬢が嬉しそうにそう言ったとき、いやな気がしたものだ。
ボクの寝室と彼女の未来の寝室はくっついているのだ。
壁はあまり厚くはない。
イタリアの古い建築法とやらでは、壁の厚さは2種類あり、一つは建物を支えている厚い壁(この建物のは45cm)で、あとは薄い壁で20センチくらいしかない。例えば、わが家のサロンとキッチンとの壁は45cmあっても、お隣さんとの寝室同士の壁は20cm弱と言った具合なのだ。だから、草木も眠る丑三つ時に奇声を発すれば、叩き起こされるのはごく自然のこと。
「見にいらっしゃいよ。家具も全部入ったの」
まだ30前の美しい独身娘は屈託なく言って、内装が終ったとき、ボクを案内してくれた。白一色の我がX『図書室』は、淡いローザに生まれかわり、アイボリーカラーのラッカー仕立てのベッドが中央に君臨していた。
何と、ベッドは彼女の頭が我が寝室の壁に接着する形で配置されていたのだった。こりゃ、やばいなあ。
*
インクボの翌日、ルクレツィア嬢にお礼を兼ねてプレゼントを持って行った。
壁一つ向こうの出来事など、素知らぬ顔の現代人。彼女はそんな味気ない現代の、たぐいまれな人物というのが、我が友人達の意見なのだ。こんな隣人は大切にしなければ、と彼らは言う。
パンテレリア産の最高のパッシートを提げてベルを鳴らす。
恐縮する娘のことば。
「お礼だなんて飛んでもない。お友達のプレゼントとしてなら受けとるわ」
華やかながら、趣味のいいサロン。彼女は某弁護士のアシスタントなんだそうな。
そう言えばボクの住んでる4階の上も下も、右も左も、家主さんは結構お金もありそうな若い女性ばかり。
「猫でも飼ったら?」とけしかけてみる。
(留守のときはボク、面倒みたげるよ)
「ああ、飼いたいけど、まだ決心がつかないの。あたし、真っ黒で目がグリーンのンの猫、以前飼ってたことあるのよ。かわいいわあ」
じゃあ、飼うとしたらまた黒猫?
薄い壁の向こうで、こっちに向かって、ハーッt
こっちはどんなインクボに脅かされるやら。(K)
悪夢のエッセイです。
インクボ(悪夢)
人里離れたちょっとぶっそうな、石垣みたいなところを沿ってボクは歩いていた。
もう、暗くなりかけていた。
急ぎ足のボクは、道ばたに座り込んでいる黒猫を蹴飛ばしてしまったのだ。突っかいたときはじめて、それは猫であることがわかった。いや、蹴飛ばされて猫にひょう変したのかもしれない。夢って、現実には起らないことだらけだもの。
蹴飛ばされた黒猫は牙をむいて、ハーッとやった。
おっかない顔だった。
ボクは逃げ出した。
逃げながら後ろを見ると、黒猫はどんどん大きくなってまるで豹のようになり、ボクを追っかけてくるのだ。
アユートー(助けてーぇ!)と、たしかイタリア語でありったけの力で叫んでいる自分。
逃げながら声を張り上げて、何回も何回も勢威いっぱい叫んでいる自分。
獣はだんだん大きくなって、視界がなくなるくらいに広がっていく。ついに、真っ黒なマントでボクを包み込もうとした。ああ、もうだめだ!と思ったとき、目が覚めた。
夢でよかった・・・よろい戸から洩れて来る星明かりを感じながら、自分がびっしゃりと汗をかいているのに気が付いた。
ボケッとしている自分の耳に、短いブザーの音を聞いたようなきがしたが、気のせいだろうと思った。
ふらつく頭でベッドを離れながら、時計を見ると3時半をさしていた。ベッドに入ったのは2時を過ぎていた。フリーランスのボクは、完璧な夜型なのだ。
コーヒーでも沸かそうかとキッチンに入ったとき、ベルは再び鳴った。覚悟を決めたような執拗なベルの音に、ボクはもうちょっとのところで、インクボはまだ続いているような気にさえなった。
ドアの小さな覗き窓から目を凝らすと、若い女の姿が目に入った。彼女は我が家のドアから離れると、上に向かう階段を数階上って、また降りて来て、今度は下へ行く階段を降りはじめて又、上がってきた。明らかにどうしていいのか迷っているふうだった。
危険はなさそうだから、ボクはドアを開けた。予想していた通りに隣に住むルクレツィアという娘だった。
「気分はどう?あたし心配で心配で」
彼女は開口一番こう言った。
「あなたが助けてーって叫んで泣き出している声で、あたし目が覚めたの。叫び声が止まないので、携帯を掛けたけど切れているでしょう。だから、ベルを何回も鳴らしたんだけど。あたしポンピエーレ(消防夫)に電話もしたのよ」
こういうときはイタリアでポンピエーリを呼ぶらしいのだ。
奇声を発していた住人の反応がなくなると、クレーンで4階まで上って来てバルコニーに移り、窓をわって侵入する。
「病人はどこだ!気狂いはどこだ!」
「あのね、インクボで獣に追っかけられていたんだ。悪かった、迷惑かけて」
「ほんとうに何ごともなかったのね。じゃあ、消防夫には来る必要はないって連絡するわ」
彼女はそう言って、手にしていた携帯でキャンセルをしてくれた。
そして、全ては平常に戻ったのである。
我が家の寝室と、お隣の寝室が付き合わせているのが、日頃から気にはなっていた。
ときどきインクボで大声をだす、自分のこの病い?のことは重々心得ていたからだ。
ルクレツイア嬢が住んでいる60平米のアパートを彼女に半年前に売り渡したとき、一ばん気になったのは彼女の新しい寝室のことだった。
「この部屋、寝室にちょうどいいおおきさだわァ」
ルクレツィア嬢が嬉しそうにそう言ったとき、いやな気がしたものだ。
ボクの寝室と彼女の未来の寝室はくっついているのだ。
壁はあまり厚くはない。
イタリアの古い建築法とやらでは、壁の厚さは2種類あり、一つは建物を支えている厚い壁(この建物のは45cm)で、あとは薄い壁で20センチくらいしかない。例えば、わが家のサロンとキッチンとの壁は45cmあっても、お隣さんとの寝室同士の壁は20cm弱と言った具合なのだ。だから、草木も眠る丑三つ時に奇声を発すれば、叩き起こされるのはごく自然のこと。
「見にいらっしゃいよ。家具も全部入ったの」
まだ30前の美しい独身娘は屈託なく言って、内装が終ったとき、ボクを案内してくれた。白一色の我がX『図書室』は、淡いローザに生まれかわり、アイボリーカラーのラッカー仕立てのベッドが中央に君臨していた。
何と、ベッドは彼女の頭が我が寝室の壁に接着する形で配置されていたのだった。こりゃ、やばいなあ。
*
インクボの翌日、ルクレツィア嬢にお礼を兼ねてプレゼントを持って行った。
壁一つ向こうの出来事など、素知らぬ顔の現代人。彼女はそんな味気ない現代の、たぐいまれな人物というのが、我が友人達の意見なのだ。こんな隣人は大切にしなければ、と彼らは言う。
パンテレリア産の最高のパッシートを提げてベルを鳴らす。
恐縮する娘のことば。
「お礼だなんて飛んでもない。お友達のプレゼントとしてなら受けとるわ」
華やかながら、趣味のいいサロン。彼女は某弁護士のアシスタントなんだそうな。
そう言えばボクの住んでる4階の上も下も、右も左も、家主さんは結構お金もありそうな若い女性ばかり。
「猫でも飼ったら?」とけしかけてみる。
(留守のときはボク、面倒みたげるよ)
「ああ、飼いたいけど、まだ決心がつかないの。あたし、真っ黒で目がグリーンのンの猫、以前飼ってたことあるのよ。かわいいわあ」
じゃあ、飼うとしたらまた黒猫?
薄い壁の向こうで、こっちに向かって、ハーッt
こっちはどんなインクボに脅かされるやら。(K)
| 猫.cats,gatti 100の足あと | 13:59 │Comments2 | Trackbacks0│編集│▲
壁の厚みって大切ですよね。
カベひとえってことわざもあるし。
2009.07.18(Sat) 19:07 | URL | けんじ|編集