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アラベッラの夜
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底冷えがする小雨模様のパリを訪れたのは、1980年初めの5月、フリーの仕事も慣れてきた頃だ。

ワゴンレットで夜を明かし、北駅に着いたのは、やっと市街が活気を帯びてきた早朝であつた。
タクシーに乗り込む。そして灰色のコンコルド広場をいっぱいに見下ろせる小さなホテルにチェックインをする。
そして、またタクシーでオペラ座の切符売り場へ直行。
予想していた以上に多くの人が並んでいる。スカラ座で切符購入の苦労は経験済みだから、これくらいのことでは驚かないが、この底冷えで多分2時間も並ばなければならないだろうと思うと気が重くなる。ミラノは雲ひとつない汗ばむような初夏だったのに。
 ボクのパリ滞在は6日間だけだが、残念ながら、先き1週間分のプログラムはほとんど売りさばかれてしまっているようだ。

でも、R・シュトラウスの『アラベッラ』という、初めて名前を聞くオペラは買えるかもしれない。
『アラベッラ』とは、一体どんなオペラなのだろうか。全く見当もつかないが、とは言え、シュトラウスのオペラは、ボクにとってそれまで全く無縁であったわけではない。
ウイーンでの『薔薇の騎士』、そして忘れられない『サロメ』・・・ミュンヘン・オペラがスカラ座で引っ越し公演でやった『サロメ』はボクをすっかり魅了してしまった。

燃えるような満月に照らし出された宮殿で繰り広げられる1幕物のドラマ。その間、きっちりと100分。地の底から響いて来る予言者ヨハネのバス、7枚のベールの舞いの後のラストなど、忘れられないシーンがいっぱいだ。
だから、『アラベッラ』だって遠来の客に期待外れをさせないほど素晴らしいオペラではないと、どうして断言できよう。どうか、ミラノから夜行でかけつけた、熱心なオペラファンために1枚でも残っていて欲しいと祈る気持ちだ。しかも初めてのパリオペラ座なのだから。

さて、2時間半も待たされて順番が回って来た。
予期していたことだが、翌日の『アラベッラ』だけが残っていた。実はその夜は『ガラ・オペラ』なのであった。
『ガラ・オペラ』とは、慈善公演のようなものだそうで、出し物は同じなのに値段は倍くらいにもなる。その代わり一流の歌手が歌うのは通例になっていると『通』から聞いてはいた。

窓口の眼鏡の女性が微笑む。
『どうするの? 買うの? 買わないの?』
とその目は問うている。決断しかねているボクをじっと見つめているので、『それにしても高いなあ』とため息をつきつつ決心して一枚買った。タイトルさえ知らなかったオペラだが、買ってしまうと、やったぞっ!って気分だ。

翌日、ブティックでグリーンと黒のストライプのパピリオンを買った。
黒いベッルートの上着は用意して来たが、『ガラの夕べ』へ出向くためには、ノーネクタイではみっともないし、フランス人は気取り屋だから、入場を拒否されるかもしれないなどと、昨日スカラ座博物館のアルドに電話を入れたとき、脅かされたためだ。

グレーの一張羅の変えズボンも持って来ていたから、一応はまとまりそうだが、靴が何とも。
登山靴のようながっしりとした(ぼてっとした)バックスキンでは、ビロードの上着とパピリオンが泣いてしまうが、なけなしの金をはたいて靴まで買うというのは、なんぼなんでも行き過ぎではなかろうか、要はオペラ鑑賞なんだよ、と自分に言い聞かせる。

いよいよ当夜、やはり小雨が降る冷え込む夜だったが、胸弾ませてオペラ座に出向いた。
着飾った人々で混雑する中、マスケラ(案内係)は、ボクの懸念の足元などには眼もくれずに、にこやかに席に案内してくれる。

パルコだから、一応一流ポスト。
まだ他に客はおらず、手すりに頬をついて、きらびやかな人々を見下ろしながら一人座っていると、開演間際、ホールの証明が暗くなりはじめた頃、一人のご婦人がマスケラに導かれて、がさがさと衣擦れの音をさせながら、ボクの斜め後ろに座った。

『アラベッラ』はリヒアルト・シュトラウスの三幕物の、ちょっと長ったらしいオペラである。

婚期を逃そうとしているウイーンの斜陽貴族の娘アラベッラは絶世の美女で、彼女を獲得しようと名門や富豪達の出入りが後を立たない。
アラベッラの両親も娘の良縁を切っ掛けに、再び上流社会で脚光を浴びたいとの魂胆だが、当のアラベッラはどうも煮え切らない。
実は彼女にはマレンコという、田舎貴族の片思いの人がいたのである・・・

昨日ホテルから電話して、スカラ座の友人から聞いたさわりだけを頼りに観た『アラベッラ』の第一幕、ドイツ語はちんぷんかんぷんだ。
いろいろな人物が出たり入ったり、切れ目のない音楽で延々と続くのだから、普段だったら絶対一眠りしてしまうのに、さすが気が張っているのか、支払った高額のためにモトを取らなきゃあという悲壮感からか、充分もちこされそうである。
arabella

舞台もコスチュームも絢爛豪華、そして、ボクのお気に入りのパリ音楽学院のオーケストラ!
どうしてあんなに輝かしい音色が出るんだろう。
アラベッラを唱っているのは、美貌で誉れ高いキリテ・カナワというオーストラリア出身の名ソプラノで、まるで女優のような気品と風格があり、やっぱりガラ・オペラだけのことはある。

1幕が終って場内が明るくなった。後ろを振り返ったとき、斜め後ろの女性と眼が合い、軽く会釈をした。
その後彼女は出て行き,ボクもバルコから抜け出して、豪華な劇場内をぶらぶらした。
映画にも時々登場するオペラ座の内部、期待に違わぬ豪華さである。大理石の階段を、着飾った男女が楽しげに囁きながら、ゆったりと下りたり上がったり、華やかでスケールの大きいパリオペラ座ではあるが、やはり、ボクはスカラ座の方を好む。

スカラ座は大きくはないが、粋を込めて造り上げた華麗さと暖かさがあり、情感がある。それが、本物のオペラを聴けるという期待感へと繋がって行く。
カラーで言えば金と緋色のハーモニーである。ではパリオペラ座のカラーは何だろう。燻し銀であろうか。でもちょっと冷たい。何がそう思わせるのだろう。メッキがかった銀とは言わないが、なにか『不在』を感じさせる・・・

一通り観察してパルコに戻って来ると、斜め後ろの女性もすでに入っていて、カタログを眺めていた。彼女は学生のように若く、その夜に相応しく念入りに化粧をしていた。化粧だけではなくドレスも、あたかもガラの夕べのために新調したごとく豪華である。

「空席のようだから、前に来られたらどうです?」
ショートカットで丸顔の彼女に、そう声をかけたら、嬉しそうに下りてきて隣に座った。
当時流行った落下傘のように広がった、ブルー・シルバーに小さな草花を散らしたドレスだが、どうやらペチコートが入っているらしく、体をよじるごとにさがさと音をたてる。

娘は同じ布のショールを掛け、レースの手袋をしている。
一緒に並んで真近かに見ると、彼女はとてもあどけない。化粧も日頃はあまりやらないのに、今夜のために一生懸命考えてやった、という感じだ。

ボクも靴はともかく(幸い足元までは見えない)、お隣の彼女のために、粧し込んで来て本当に良かったと思った。そんな安心感と場内の雰囲気が、気軽に口を開かせる。

「アラベッラは初めて観るオペラだけど素晴らしい」と言うと、
「もちろんあたしも初めてよ。凄く魅惑的。ドイツ語はちんぷんかんぷんだけど・・・」
2人は同時に頷いて笑った。

自分はミラノに住んでいて、今週はパリに美術展と初めてのオペラ座を観に来たのだ,と言うと、
「ミラノ?」
パリ娘は眼を輝かせた。

「あたし、一度だけスカラ座にいったことがあるのよ。ホセ・カレラスのドン・カルロ素晴らしかったわ。もっと他のオペラも観たかったんだけど、夫が全くオペラには関心がないので・・・」

夫? なんでこんなところで夫が登場しなければならないのだろう。
せっかくのムードがぶちこわしではないか!
フランス語と片言のイタリア語と、僅かの英語を交えて,フランス娘はくったくなく、楽しげに話し続ける。
「『ラ・ボエーム』も、立ち見でもいいから観たかったんだけど・・・彼は言うの、台詞を節をつけて喋るなんて、オペラって全く不自然だよ。『Che gerida manina….(何と冷たい君の手だろうか・・・)』なんて、ちゃんちゃらおかしいって」と、ちょっと両手でポーズを取り、アリアの冒頭を口ずさむ。

「このアラベッラだって、お友達を誘ったんだけど、カルメンとかアイーダなら観に行ってもいいんだけど、なんて断られちゃったの。だから、あたし決心したの。これからは観たいオペラはどんどん1人で行こうって。ああ、今夜は来て本当に良かったわ!」

こんな娘に巡り会えて、ボクはすっかり嬉しくなった。
映画でもコンサートでもオペラでも、よくカップルの片っぽうは退屈して、あくびをしたり、落ち着きなくきょろきょろしているのを見かけることがある。そんな情景を眼にするとき、憐憫を誘うことしばしだ。
アートは共用出来る物ではないってことを知らない哀れな者たち・・・

ふと思い出したように、彼女は小さなハンドバッグから、そっと白い紙包みを取り出して開いた。
それはこがね色の数枚のビスケットであった。
「これ、よかったら召し上がって。わたしが作ったの」

噛むと、カリッと音をたてて砕け、甘い蜂蜜の香りが口の中に広がった。彼女も一つとって口にもっていきながら、『どうかしら?』と問わんばかりに、はにかんだようにボクを見ている。
何か言おうとした時、場内が暗くなり初めた。そして二度目のカリッは、拍手にかき消されてしまった。(K) 
                                
                    
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| オペラノスタルジー | 17:40 │Comments0 | Trackbacks0編集

verdi
 
 ジュゼッピーナ・ストレッポーニは、ヴェルディがまだ無名のころ、スカラ座のプリマドンナとして活躍した人であったが、30歳半ばですでに声を失ってしまう。

後年ヴェルディと結婚するが、控えめで、四カ国語も自由に話せるほどのインテリ。
 学識と教養に溢れた彼女は、夫の良き友であり助言者でもあった。山積みされた夫への手紙の返答などは、ほとんど彼女が代筆していたという。夫を深く愛し、偉大なる芸術家として憧れ尊敬し、身も心も捧げた人であったから嫉妬心も強く、そのために自己との戦いも大きかった。

 『アイーダ』のレッスンが始ったときだ。自信に満ちあふれた若きソプラノがこの屋敷に現れたとき、ジュゼッピーナは絶望する。このソプラノと夫の間にすでに何かが起こっていることを、彼女は感知していたのである。

 サロンに現れたソプラノのテレーザは、師のピアノに合わせ三幕冒頭の『おお我が祖国』を歌い出す。かってのスカラ座のジュゼッピーナのように美しい張りのある声で・・・
 彼女はサロンの隣の自室に閉じこもり、二人のレッスンに聴き耳を立てている。弟子を叱りつけ、癇癪さえ起こすヴェルディだが、甘い言葉もわすれない。
「君、もっとドラマティックに! 可憐さはこの際全部捨てなきゃあだめだよ!」

 ジュゼッピーナは日記帳を取り出し、自分の気持ちをしたためる。
「今日は私の人生で、最も辛い日になるであろう」と。

 ジュゼッピーナを演じたのは、長年スカラ座のプリマとして君臨した、カルラ・フラッチという名のバレリーナ。
 監督から『フラッチこそストレッポーニのイメージにぴったり』と、是非と望まれて、俳優としてはずぶの素人ながらこの大役を果たした。
 ヴェルディを演じたのは、名前は思い出せないが英国の無名の俳優で、老後の役はとても良かった。顔もよく似ていて、ヴェルディはこんなひとだったのだろうと、想像させるにあまり有る役作りであった。だがその後、俳優として特別に注目もされずに終ったのはちょっと残念である。フラッチは、『ヴェルディ』のあと一度もドラマに出たことはなかったと思う。

                     *

 僕たちがサンタ・アガタを後にしたのは、午後もそんなに遅くはなかったが、視界が不可能なほど霧が立ちこめていた。「春になったら又来ようね」と話ながら、おそるおそるミラノへ車を走らせた (完)
 
*最後まで読んでくださって有りがとうございます。感想をまってます。

| オペラノスタルジー | 13:08 │Comments0 | Trackback-│編集

verdi
 我々『スカラ友の会』一向は昼食でたっぷり時間をとったあと、サンタ・アガータの屋敷に足を運んで、楽しい意義或る午後を過ごしたことは、言うまでもない。

その日はルチオも案内役をやり、庭の大木の陰で説明する彼に老婦人たちは、一生懸命耳を傾け、質問したりしていた。
ヴェルディが円熟期に造り上げたこの隠れた城は、思いのほか質素で、彼の生い立ちや人柄をおもわせるものがある。
 森のような広大な庭には、池もあり、小山のようにこんもりと盛り上がった自然冷凍の倉庫などもある。養鶏所や温室栽培などもあり、ヴェルディは農酪にも精通していて、小作人達に手ほどきをしていたほどなのだ。
 屋敷には、今でも子孫が住んでいるとかで、我々訪問客が見れる所はごく限られている。愛妻ジュ ヴェルディはシェークスピアの三つの劇をオペラに書いたし、マンゾーニの死を悼んでレクイエムも作曲した。

                                  *

 2年後、オペラファンが待ち望んでいた映画『ヴェルディ』が出来上がり、数週間にわたって放映された。
 全ドラマに、たびたび真夏のスカラ座広場での撮影場面が出て来てくる。

 故郷ブセットからミラノに出て来た、夢多き若きヴェルディがカフェに向かうところや、どん底にあったヴェルディと、スカラ座の支配人との雪の夜の運命の出会いのシーン、そして2度目の妻、ジュゼッピーナに先立たれた晩年の散策や、グランドホテルから出る霊柩車の行進のラストシーンなどなど、すべて、夏休み返上のスカラ座広場で撮影されたのであった。

 ・・・凍えるような冬の夜、あてどもなくさまよっていたヴェルディとすれ違ったのは,スカラ座の支配人であった。その頃ヴェルディは2人の子供と愛妻マルゲリータを失い、初演作も失敗してしまう絶望的な時代であった。顔を伏せ、わざと気が付かないふりをして、通り過ぎようとするヴェルディを呼びとめた支配人は、青ざめた作曲家の顔をまじまじと覗き込み、
「どうしたんだい?、この頃全く顔を見せないじゃあないか。・・・ちょうど良かったよ。気が向いたらこれに曲を付けてみてくれないかね」
と、無理矢理に台本らしきものを、彼のコートのポケットに押し込んで立ち去ってしまう。

 火の気のないアパートに戻ってきたヴェルディは、その台本を床に叩き付ける。床に散らばった台本を拾い上げようと身をかがめた彼の眼は、ほのかなランプの下の一行の詩句に釘ずけになったのである。
『Va pensiero.Sull’ali dorate(飛べ、思考よ、黄金の翼に乗って!)』
 一脈の旋律がひらめき、脳裏を広がって行く。彼は取り付かれたように、寝食をわすれて書き続けた・・・このテレビドラマの忘れられないシーンである。この作品こそ、彼のスカラ座の門を開いてくれた出世作『ナブッコ』である。

 連続ドラマ『ヴェルディ』が終わった頃、ミラノを訪れた友人の希望もあって、再び彼の故郷を訪ねた。冬にはまだほど遠い季節ではあったが、朝から霧の深い日であった。サンタガタの屋敷の広大な庭園には、枯れ葉が積もり、他の見学者もごくわずかで、閑散としている。

  ここで撮影された場面を思い出す。
 妻、ジュゼッピーナの最期のシーンはしんみりさせる。
 老いたヴェルディは最後まで妻に寄り添い、時たま空っ風の強い庭に出て、小さな花を見つけると、摘んで病室に持って行き、病床の妻を喜ばせる。(つづく) 

| オペラノスタルジー | 20:07 │Comments0 | Trackback-│編集

verdi

 僕が初めてヴェルディの故郷を訪れたのは、映画が出来る数年前、ミラノに来て五、六年も経った頃のことである。
 スカラ座博物館が主催する『AMICI DELLA SCALA(スカラ友の会)』というのがあったが(今でもあるかも知れない)、1年に1回の恒例のバス旅行で空席があるので、良かったらおいで、と言われて有り難く便乗させてもらったのである。電話を掛けて来た図書館のルチオは、バス代からレストランの昼食に至るまで、すべて会員が払ってしまっているから、お前は全くタダなんだよ、だから必ず来いという。
その頃、まだパッケージ・デザイン会社であくせく働いていた僕は、早速仮病を使って参加をOK!
ある秋晴れの朝早く、スカラ座前に待機しているバスに勢いよく乗り込んだのであった。

 車内に飛びこんだ瞬間、強い香水のにおいが鼻に付いた。すでに満席になっている客達の面々はほとんど女性ばかりで、しかも中年以上のおばあさまたち。
 ちょいとピクニックに出かけるつもりで普段着でやって来た僕が恥ずかしくなるほど、ご婦人方は念入りに着飾っていて、強いプロフーモが、小娘のようにはしやぐ華やかな雰囲気を、一層あおり立てている。
 僕の斜め前のすごく着飾った、とうに80も半ばを過ぎたような最長老の女性が身動きもせずに座っている。周りの連中はときどき「プリンチペッサ(お姫様)、ご機嫌いかが?」などと、やさしく声をかける。彼女はれっきとした名門貴族なのだそうだ。

 隣に座ったルチオが、小声で説明する。
『スカラ友の会』のメンバーは、オペラ愛好家には違いなかろうが、実はお金と暇の有り余っている高齢の女性達の社交場みたいなもの、なのだそうだ。

 だからと言って取るに足らないような会でもない、と僕は思う。
 この会主催の、偉大なるソプラノ・E・シュワルツコップを囲んでの集いの会もあったし、テバルディが招かれて、彼女の自伝出版記念インタビューが行われたり、レコード出版記念会やいろいろなめずらしい展示会もあった。

 さて、バスの中をくまなく見回してみると、男性は館長さんとルチオと僕と、あと2人の老紳士がいるだけで、言うまでもなく女性群が優勢である。その頃の一番モダンでチャーター料金がトップの大型バス。お金持ちのおばあさまたちのピクニックなのである。

 そんな境遇でいちばん若く、しかも東洋人だというわけで、ぼくは結構珍しがられた。
「みなさん、今日の招待客、K君をご紹介します」
と、館長さんの挨拶で、拍手で迎えられたあと、僕もマイク片手に喋り、『さくら、さくら』を歌わされたり、他愛も無い質問に答えたりして、ご婦人の退屈しのぎに役だったのであった。

 バスはロンバルディアからエミリア・ロマーニア地方へと高速道路を下り、パルマのちょっと手前から、今度は黄金色に輝く田園の中を、のんびりと走って行く。

 ブッセトの外れ、ラ・ロンコレという村にあるヴェルディの生家を訪ねた。
 郵便馬車の馬の交代をさせる地点だったそうで、馬屋などがある非常に質素な二階建てだ。
 ヴェルディの父親は小さなレストランを経営していた。そこで遠出の馭者たちが食事をし、宿泊もした。
 2階の南寄りの、その真下が馬屋になっている部屋が幼いジュゼッペの部屋として与えられていたそうだが、動物の体温が下から伝わって来て、いちばん温かだったから、なのだそうだ。

 ジュゼッペは幼いときから音楽的才能を発揮して、近所の教会のオルガニストに採用されたりする。


 生家を後にして、腹ペコの我々は、予約してあったブッセト市内のいちばん立派なレストラン『Due foscali』に連れて行かれた。
 ヴェルディの初期のオペラのタイトルを付けたこのレストランは、名テナー、カルロ・ベルゴンツィが経営している店で有名だ。
 街の中心部の広場のずっと奥まった閑静なところにあり、そのすぐ近くにヴェルディ歌劇場が君臨している。ここで開催される『ヴェルディ・コンクールは、若きオペラ歌手の登竜門として有名である。

 パルマ名物の生ハム『クラテッロ』やサラミで、舌をなじませたあと、その店のおすすめのプリモ、Gnocchi Nonno Verdiが出てきた。『ヴェルディおじいちゃんのニョッキ』という意味で、緑色をしている。ヴェルデとはイタリア語でグリーンを意味する。
 
 期待の的だったオーナー・ベルゴンツィさんは、ニューヨーク・メトロポリタンに歌いに行っているとかでお留守、ご婦人達をがっかりさせていた。
 ヴェルディ歌いとして世界的名声を馳せたベルゴンツィは、実はこのエミリア・ロマーニァ地方のパルマの生まれで、言うなれば、巨匠ヴェルディと同じ土地で生を受けた。

 ついでながら、オペラの巨匠、ヴェルディを生んだこの地域は、ベルゴンツィだけではなく、戦後のオペラ黄金時代を築き上げた、きらめく名歌手が後を絶たずに出て来たのである。
 パヴァロッティとミレッラ・フレー二は、同じモデナ市出身で二人は幼なじみだったと言う。
 そしてテバルディ。彼女はこのエミリア・ロマーニャ州からたったの20キロくらいはみ出したところにあるペーザロの生まれなのだ。

 偉大なヴェルディが出た後、この地域のオペラに対する情熱は他州を抜きん出ていただろうし、オペラ歌手になるための教育も盛んであったのであろうが、この名歌手達の輩出は奇跡としか言いようがない。(続く)
 

| オペラノスタルジー | 12:46 │Comments0 | Trackback-│編集

『ヴェルディのふるさと』 1
verdi
 或る朝、ミラノの中心街エマヌエル・アーケードの中を通過してスカラ座広場に出てみたら、柵がめぐらされていたりして、日頃以上に混乱した感じである。しかもスカラ座と反対がわの市庁舎寄りに、200人? いや、それ以上の人々が列を作っているのだが、男も女も老いも若きも、じりじりと照りつける昼前の太陽の下で、結構楽しげに喋っていて、深刻な雰囲気はまるでない。
一体この行列は何のためだろうかと、いくぶん興味をそそられて眺めていると、いきなり後ろから、ぐいっと僕の襟首をつかんで叫ぶ者がいた。

「エキゾティチ、ノー!」

驚いて振り返って見ると、見覚えのある背の高い警官が笑って立っている。
何と彼は我が家の近くの警官寮にすんでいて、自動車学校では免許を取るために、一緒に勉強しているM君であった。彼は人ごみの整理にあたっているのだ。

「エキストラだよ。ジュゼッペ・ヴェルディの映画のために、エキストラを募集する広告を出したら、300人以上集まって来たんだ」
彼は汗を拭いながら説明してくれる。エキゾティチとはエキゾチックのことで、白人以外の人種をさしているのであり、残念ながら我々東洋人は、たとえその気になって応募しても対象外なのである。まったく残念! 

 RAI(イタリア放送局)が、莫大な金と時間を費やして、ヴェルディのテレビ用伝記映画を製作中だということは、久しい前から全国的な話題となっていた。 
ミラノ心臓部のスカラ座広場からマンゾーニ通りのグランドホテルまで、市内電車の路線は土で被せられ、ヴェルディが息を引き取ったこのホテルの玄関を当時の写真通りに化粧直ししてしまったり、さては、スカラ座の前にカフェを作ったりで、1800年半ばから1900年に至るエポックを再現するために大作業をやっていた。
電車はその区間は勿論不通となった。交通の混乱を避けるために、ミラノが最も静かで、市民がバカンスに出かけている8月に、まとめて撮ってしまうということなのであろう。

お札にも印刷されていたオペラの神様のようなヴェルディの伝記映画の製作ともなれば、もう国事的なことで、僕がイタリアに来て、これほど大掛かりなドラマ造りにお目にかかったことは、以後無かったように思う。真夏に人口の雪を降らせたり、雨をふらせたり、現在のようなコンピューターの時代ではないので、『手仕事』の苦労に制作者にとっては大変な夏であったろうが、幸いにも僕は警察官と親しいこともあって、何回も撮影現場を真近くで見物することができた。

現在と違って、あの頃はすべて、手作りの時代。なつかしい。(続く)

 

| オペラノスタルジー | 05:22 │Comments0 | Trackbacks0編集

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すむらけんじ

作者: すむらけんじ
ミラノに住む広告イラストレーターです。このブログは今まで飼った猫、今飼っている猫のことを綴ったものです。
作者は左耳は生まれつき難聴にかかり、人口内耳に踏み切るまでの耳の歴史、未来のことなども連載しています。

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