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イタリア猫ショートショート<あと」15話>



vecchi


ヨハンという名のネコ

老人の名はセルジョ。88才。

「わしはもう生きてることに疲れたよ」
こう口癖の毎日なのだ。
かといって、無趣味な退屈爺さんってわけではない。

たまにはバッハのブランデンブルグ協奏曲に聴き入ったり、めったに行かなくなった蚤の市でアールヌボーのヌードのブロンズを買ってきてどこに飾ろうかと家中をうろうろしたりする。

「外出意欲が減ってしまったのが、老いを加速しているのです」
たまに来てくれる医者は言う。


手伝いの女、アラがもらってきた、生まれて数ヶ月の子猫を飼っている。

ありふれたキジ猫だが、尻尾の先の白い部分がやたらと長いのが特徴だ。
名前はヨハン。
バッハが好きだからヨハンにしたってことなのだろうが、苦心してつけた名前でもない。

「ヨハンって名前のネコが昔いたような気もするな」
ぐらいの程度なのである。

ご老人独りではさびしいでしょうから、猫だっていないよりマシですよ・・・とアラは言う。


*

「セルジョさん、今、公園の中を横切っていたら、ヨハンとそっくりの猫を見たんですよ。本当にそっくりだったの。ヨハンたら、尾の先っちょの白いところが変わってるでしょ。でもねぇ、その猫、お年寄りの女性に体を寄せるように寝ていたし、彼女に失礼かと思ってあまり近寄って見ることもできなかったわ」

女性、と聞いてセルジョ氏の白い長い眉毛が、ネコのひげのようにぴくっと動いた。
だが、ドンドロでうとうととしていた老人は、聞き流したまま本格的に寝入ってしまった。

ほぼ半日留守をしていた猫のヨハンは夕方戻ってきた。家政婦が用意して帰った餌に目もやらず、籠の中で丸くなって寝てしまった。

       *

20年前に他界した奥さんとの金婚式の記念にもらって植えた杏の木。
30センチくらいの苗木だったのに伸びに伸びて、庭の隅にこんもりと影を作っている。

杏の木の下の籐椅子で眠っていたはずのヨハンは、午後には姿を消した。今までだってそうだったのかもしれないが、注意して見てたたことなどあまりなかった。

ところが、今日はちょっと気になった。
昨日、家政婦のアラが言ったことを思い出したからだ。我が家の猫とそっくりなのが、女とベンチで休んでいたってことを。
セルジョ氏は杖をつきゆっくりと公園の方へ歩いて行く。
昔は女房と2人でよくここを散歩をしたものだった・・・
百年も経っていそうな唐草模様のベンチに腰掛けて、それぞれの本を読みながら、老夫妻は午後を過ごしたこともある・・・

そのベンチに老女が座って本を読んでいる。

淡いピンクのワンピースの品の悪くない女。

ふっと、亡き女房のことが目に浮かんだ。
一匹のキジ猫がぴったりと体を寄せるようにして眠っている。
わがヨハンにちがいない、または違うかもしれない・・・

老人は麻の夏帽子の先っちょをつまんで会釈し、空いているスペースにやっとこさ、と腰を下ろした。
「いいお天気ですなあ。」
「そうですわね」
老女も彼のほうを見て言ったが、読書に集中しているらしく、すぐに本に目を落として読み続けている。
愛想が悪い女だ。

自分ほど年をとってはいまいが、綺麗な顔立ちだ。

老人はしばらくしてまた口を切った。猫に向かって小声で言う。
「お前はうちのヨハンとそっくりだな」
眠っていた猫の耳がぴくっと動いた。

いきなり老女は本をバッグにしまい立ち上がった。

「午後からお天気がいいといつも、ここで本を読みますの。もう日が傾きはじめたので帰らないと。それではまた」
猫はセルジョ氏の顔とをしばらく見ていたが体をすりつけてきた。
そしてベンチからとび降りると、老女の歩いて行ったほうに姿を消してしまった。


翌日の午後。
老人は又杖をついて公園まで行ってみた。

「こんにちは。ご機嫌いかが?」
老女は今日よりずっと愛想がよかった。

「この猫はうちのヨハンのようですがね」

「まあ、そうでしたの。我が家の近くで折々見ましたので、ポルペッティーノやお菓子を上げたりしてたら、そのうち家の中まで入ってくるようになり、すっかりお友達になってしまって。私が公園にくるときも、ついてくるようになりましたの。ネコちゃんの名前は?私はヨハンと呼んでますのよ。昔飼っていた猫がヨハンって名前だったものですから」

「ほう、そうですか。実はこのネコはヨハンって名前なんですよ。偶然ですなあ」のんびりと驚くセルジョ氏。

「本当に偶然ですわねえ」とニコニコ顔の老女。

「ヨハンがご迷惑をかけているようですな。いえね、よくいなくなってしまうので、不思議だなって思っていたところなんです。ところであなたのお名前をお聞きしてもよろしいかな?私はセルジョ・トニーニと申します。」

「わたくしは、ロベルタ・ヴィナーリ。どうぞよろしく」

老女はゆっくりと念を押すように自分の名を言った。

それ以来毎日というわけではなかったが、2人は公園のベンチや公園の中のガラス張りのティールームで会ったりして少しずつ親交を深めていった。彼女は若い頃から趣味でやっていた人形作りをボランティーで教えたりしているという。
スイス人と結婚してベルンに住んでいたが、独りになって一年くらい前にこの街へ戻ってきたということである。
「やっぱり最後、終着駅は自分の生まれ故郷ですわねえ」
「そうですな。わたしもロンドンに結構長くいたけれど・・・」


・・・こんな女性と茶飲み友達になれて私はついてたよ。
仲良く一緒に暮らしても悪くはないな。我が家には大きな寝室が二つあるんだから。たまに遅くまでバッハを聴いててもわずらわすことはあるまいて。

老人はそんなことまで考えた。


       *

セルジョ氏は妹のジュリアとレストランで食事をした。

彼女は一年ぶりに兄を訪ねて来たのだった。
まだまだ元気で運転もするし旅行もするし、本もいっぱい読む。

兄はちょっとはにかんでロベルタのことを話した。
「こんな年でガールフレンドが出来るとはな」

「若い頃から浮気男で有名だったけど、こんな年でわくわくするなんて、やっぱり兄さんらしいわねえ」
「まだあるんだ。うちのネコがいつの間にか彼女に厄介になっていてね、彼女はヨハンって呼んでいたそうだよ。すごいぐうぜんだろ?昔飼っていた猫の名前なんだってさ。寄寓だね。そうは思わないかね?」

子供のように他愛ない兄に妹のジュリアは妙な顔をした。
「偶然に?本当なのそれ?その人何て名前?」
「ロベルタ。えェーと苗字はと・・・」

ジュリアは思いめぐらせていたが、
「ヴィナーリ・・・じゃない?」
「そう、ずばりそんな名前だったな。お前またどうして?」

ジュリアの表情が厳しくなった。彼女は周りに聞こえないように声を落とす。
耳の遠くなった兄のために、耳たぶにくっつけんばかりだ。
「昔むかし、兄さんに惚れてた女、そんな名前じゃあなかった?」

「ロベルタって子が私に惚れてた?全く覚えがないねェ。それにロベルタなんて、北イタリアでは掃いて捨てるほどある名前だから、いちいち覚えてはおれないよ」
「60年前に兄さんが10人のロベルタに恋されたとは思えないわ」

ジュリアは軽くワインを染ませながら続ける。

「兄さんは男前でひょうきんだから、大勢のファンがいたみたいだけど、ロベルタの熱の入れよう格別だったのよ」

・・・兄さんからは見込みなしで自殺まで図ったて聞いたわ。でも一度、彼女から兄さんに取り合ってくれって頼まれたこともあるの。あたし断ったわ。兄は浮気者で結婚なんてまじめに考えない人だから、そんな頼まれごと嫌だって。そしたらね、ロベルタはすっごい形相で私をにらみつけて行っちゃったの。65年も前のことなのにわたし、ちゃんと覚えてるの・・・

とまではさすがに兄には言わなかった。おっとりした老兄に聞かせたくなかった。

「そんなこともあったのかい。若さ・・・65年前か。わたしは全く記憶にないね。お前の記憶力が異常なんだよ」
「この年になっても、記憶は抜群いいほうですからね」

兄妹はレストランを出て、タクシーで家のほうに向かう。

公園にさしかかったとき、ジュリアは車を止めさせた。

「兄さん、ここから歩いて帰りましょうよ」
二人は互いにいたわるように寄り添って歩いた。
ジュリアはロベルタという女が見たいのだ。

だが、ロベルタの姿は見えなかった。そして、ネコの姿もなかった。
「わたしがここを通るときは、必ずこのベンチにいるんだけどね」
セルジョ氏は残念そうに言う。

私たちがここを通るのを、ロベルタは知っていたみたいね・・・
ジュリアは呟いた。

アラは客用の寝室の支度をしていた。
今日から数日間ジュリア夫人が宿泊することを前もって聞かされていたからだ。
二人の女は再会の喜びを分かち合った。

「ヨハンはどこ?」
「杏の木の下で休んでいるようですわ」

「アラ、寝室が終わったら地下室に来てくださらない?ちょっと探し物をするので手伝って欲しいの」

地下室はとても大きく、古い家具やシャンデリアや置物がびっしり詰まっている。ジュリアはその家具を注意深くよけて奥に進み、もうひとつの小部屋のドアを開けた。
カビの匂いがいっぱいにひろがって彼女は思わずハンカチを顔にあてた。そこにはほこりにまみれたコモや本や木の箱などがあった。

「ここで何か見つかるかも知れないわ。何しろ、物を廃却しないのは、トニーニ家の家風だったからね」
ジュリアは一人ごとを言った。

大きなアルミの箱が見つかった。箱中兵士や飛行機などのカラフルなイラストが散りばめられていている。結構大きな箱で、彼女には見覚えのあるものだった。
これは兄専用の箱だったのだ。と言っても母親が勝手にそうしたのだったが。

ジュリアは慎重にふたを開けた。中にはびっしりと書類のようなものや、手紙、絵葉書、メモやスケッチ風なもの、山男たちのグループ写真や、少年がスキーをやっている写真などがいっぱい入っていた。この箱の中に兄の青春がぎっしり詰まっているのだ。

母さんに感謝するには、私たちはもう年をとり過ぎている・・・と、また独りつぶやいた.

彼女は写真を一枚一枚慎重に見ていった。
ふと、女の子の写真が出てきた。20歳前後の醜くもそれほど綺麗でもない普通の娘。
「ロベルタだわ」

茶色く変色した写真の中の女はクラスメートのロベルタに他ならなかった。
写真の娘は子ネコを抱いている。

「わたしの大好きなセルジョにこの写真を贈るわね。
可愛いヨハンといっしょです。(あんたがバッハのファンというのでこの名にしたの)

あなたを心から愛するロベルタ」


埃にまみれた裸電球の下でいろんな思考が駆け巡った。
箱の中を改めてあさっていたが、ロベルタらしき写真はもうなかった。

それにしても実にたくさんの未開封の手紙がある。

だらしない兄はいちいち開いて読むことをしなかったのだろう。
裏の差出し人を見てオヤッと思った。何とそれは自分の夫からのものではないか。
彼女はすでにこの世を去った夫の手紙を開けた。

「親愛なる未来の義兄セルジョへ。
借りてる金はもうしばらく待ってくれないか。今、キリキリなんだ。年末までにはきっと返す。ジュリアには極秘だ。婚約破棄になったら困るから。頼むよ」

ジュリアは吹き出してしまった。
こんな手紙も開封されずに半世紀、こうして眠っていたことがおかしかった。

返済を延ばして欲しいとか借金申し込みの手紙は他にいくつかあった。
兄は仕事以外はだらしなかったが、友人たちには寛大でもあったようだ。

女にも男にももてたセルジョ。ほとんどの友人はすでにこの世を去って、独り残された兄セルジョがいとおしかった。残っているのはロベルタだけなのだろうか。



ついに・・・未開封の手紙の中からロベルタの封書を見つけたときジュリアの心臓は高ぶった。

「あんたは誰とも婚約しないと言いながら、さっさと結婚してしてロンドンに転勤するという。絶対に許せない。あんたを憎むわ。一生憎むわ。あんたみたいな女たらしは地獄にいけばいい」


「ジュリアさん、わたしに何かお役に立つことがありますか?」
はっとして振り返ると手伝いの女アラが立っていた。
瞬間、ロベルタが立っていると錯覚したほどだった。

「いいえ、もういいのよ。兄はどこに?」
「寝室でおやすみですわ。毎日2、3時間はご休息のようです」

「さあ、上に行きましょう。話したいことがあるの」
ジュリアは腰を上げ、先に立って階段を上っていった。
     
          *


「ネコをもらってきたのはあなたなのね?誰かにそうしろと言われたの?」
ジュリアの短刀直入の質問にアラは驚いた。

「それと、ヨハンの名づけ親はあなたなの?」
「そんな!ヨハンという名前は旦那さまが考えられたのです。何だかそんな名前のネコが昔いたような気がする・・・などとおっしゃって」
ジュリアは先ほど見たロベルタの写真を思い出していた。

名前はヨハンにしたの・・・
アラの言うことが本当なら、兄の記憶の中にあの名前のことがどこかに残っていたのだわ。ロベルタのことは忘れてしまっていても。

「ジュリアさん。隠してても仕方ないことですから、一切合財お話しますわ」

アラはコーヒーをジュリアに進めてから、ゆっくりと話しだした。

「ロベルタはわたしの叔母なのです。未亡人になってスイスからこの街に戻ってきて一人暮らしですが、苦しい家計のわたしたちにも援助してくれる、優しい人なのです。
わたしがセルジョ・トニーニさんのところで働いていると知ったとき、とっても驚いて、彼にあってみたいなどと申していました。
若いとき、もう60年も前に、叔母はセルジョさんに熱烈恋したそうですが、人気者のセルジョさんは女性たちに囲まれて、全く関心をしめしてくれず、そのうち結婚されてロンドンに転勤されたとか。叔母はとっても辛い時期を過ごしたそうです。

そんなに懐かしいのならどうして会いにいかないの、淡々とした気持ちで?、と言ったら、わたしは昔、失望のあまり中傷の手紙を送った、セルジョさんは今でもそれを覚えておられるかもしれない、会う勇気がないわ、などというのです。
セルジョさんがお独りでお暮らしなのをとっても不憫に思って、子猫をプレゼントしたいと言い、名前が決まったら教えてねと言われました。旦那様がヨハンとと名づけたと伝えたら、とってもびっくりしてました。昔、自分が飼っていた猫と同じなまえだったのです。

わたしは午後旦那様がお休みのときに仕事が終わると、子猫を籠に入れて叔母のところに連れて行くことがありました。ネコは賢く、そのうち独りで叔母のうちにいけるようになったのです。何しろ叔母は可愛がっておいしいものもたくさん与えていましたから、なつくのも当然でしょうね。

ある日、わたしは初めての再開のチャンスを企てました。いつも叔母が本を読んでいる公園です。

旦那様が入らしたとき、叔母はもう緊張してしまって、そそくさと帰ってしまいましたが、翌日からはもっと自由に話せたそうです。でも旦那様は叔母の名前も全くご記憶なく、そのままの親しい友情が始まったとのことです」


           *

「今日もロベルタは来てないなあ、どうしたんだろうねえ、ジュリア?」
3日もロベルタは姿を見せない。セルジョ氏は子供のような口ぶりで失望を伝える。

           *

「ロベルタはもう4日も姿を見せないのよ。どうしたのかしらね」

「実は叔母は風邪をこじらして寝込んでましたの。もう回復に向かっているようですけど」
「どうしてそれを言ってくれなかったの?」
「どうしてって・・・ジュリアさんは、あまり叔母のことを・・・」

           *

「兄さん、ロベルタは風邪で寝込んでいたらしいの。ヨハンを連れてお見舞いに行ってあげたら?」(K)

| 猫.cats,gatti 100の足あと | 22:56 │Comments3 | Trackbacks0編集

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コメント

むかし恋した人にドキドキしながら会うなんて
女性の夢かもしれないですね~!
男はセルジョのように、みんな忘却の彼方?
トルナトーレ監督のニューシネマパラダイスでは
男性もドキドキするんだなあ~と思ったけど..!

2010.01.08(Fri) 13:14 | URL | AKI|編集

Re: タイトルなし
さっき目が覚めて最初の方をバサバサッと切っちゃった。
これで少しはしまったかも。
とにかくスピードコメントに感謝!

2010.01.04(Mon) 12:28 | URL | すむらけんじ|編集

ほのぼのとしたショート・・・・・

けんじさんが長く過したイタリアでの日々
の中で体験した、内容豊富なお話の盛り合わせ
を楽しませて頂きましたよ~~

こんな老後にも憧れますねぇ~~(フ フ・・・)

2010.01.04(Mon) 10:27 | URL | mako|編集

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すむらけんじ

作者: すむらけんじ
ミラノに住む広告イラストレーターです。このブログは今まで飼った猫、今飼っている猫のことを綴ったものです。
作者は左耳は生まれつき難聴にかかり、人口内耳に踏み切るまでの耳の歴史、未来のことなども連載しています。

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